電通の社員手帳の画像!第4代吉田秀雄社長の鬼十則とは?

広告大手代理店「電通」に勤めていた高橋まつりさんが、過労で自殺するという痛ましい事件。

高橋まつりさんの母の弁護側は、電通の過労体質を指摘し、電通の社員手帳に掲げられているという第4代吉田秀雄社長の遺訓とされる「鬼十則」を取り上げました。

電通の社員手帳ってどんなもの?調べたところ、写真を入手しました。また、「鬼十則」ってどんなもの?それに対して「裏十則」なるものがあることも判明しました。

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第4代吉田秀雄社長のプロフィール

電通吉田秀雄
出典:http://www.admt.jp/introduction/yoshida/about.html

1928年(昭和3年)に電通に入社。地方内勤課勤務、営業局地方部長、取締役、常務取締役を経て、1947年(昭和22年)に、43歳という若さで電通の代表取締役社長に就任しました。

「日本広告会」の結成、「国際広告協会(IAA)」の極東地区副会長就任、「日本国際広告協会」の創立、「アジア国際広告会議」の開催、アジア初の「IAA賞」受賞など輝かしい経歴を築いています。

また、現在ではすっかり定着している、テレビの視聴率調査装置も完成させ、戦後の電通再建だけでなく、日本の広告業界の確立。

その猛烈さゆえ、数々の伝説を残した”広告の鬼”なのです。

<経歴>

1903年 福岡県小倉市生まれ

1928年 東京帝国大学を卒業し、日本電報通信社(現・株式会社電通)に入社

1942年 6月取締役に就任、同年12月常務取締役に就任

1947年 日本電報通信社第4代社長に就任
「日本広告会」(現・東京広告協会)の設立に尽力

1948年 「広告電通賞」を制定し第1回贈賞を行なう

1950年 「日本新聞広告業者協会」(現・日本広告業協会)の設立を推進
幹事長に就任

1952年 「広告料金の逓減料率制」を提唱

新聞雑誌発行部数公査機関「ABC懇談会」(現「日本ABC協会」)設立を実現

1956年 IAA(国際広告協会)極東豪州地区担当副会長に就任

1958年 アジア広告会議を東京で開催

1961年 IAA(国際広告協会)より、1961年度広告功労者賞(“MAN OF THE YEAR”)を東洋人として初めて受賞

1963年 死去、享年59歳

出典:http://www.admt.jp/introduction/yoshida/about.html

電通の社員手帳とはどんなもの?画像は?

電通社員手帳
出典:http://fujisawa-ryo.com/tag/%E6%89%8B%E5%B8%B3

 

電通の社員には、「Dennote」と呼ばれる社員手帳が会社から配られています。

カバーの色は毎年変わるのですが、すごいカラフルですね。サラリーマンの手帳というと、黒とかベーシックなものが多いですが、さすが電通といったところ?

このDennoteは、1週間の見開きタイプで、後半には関連する数百社の所在地や各メディアの広告料などが載っていたり、企業理念のページもあります。このDennoteに、「鬼十則」が記載されています。

ちなみに販売はされてないそうです。

電通第4代吉田秀雄社長の鬼十則とは?

1951年、4代目社長の吉田秀雄によって、電通マンの行動規範とされる「鬼十則」が作られました。この「鬼十則」とは、

 

■仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。

■仕事とは、先手先手と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。

■大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。

■難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。

■取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。

■周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。

■計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。

■自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない。

■頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。

■摩擦を怖れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。

 

うーーーん。社会人として納得出来るところもある一方、それってどうなの?って思うものもありますね。

ちょっと言葉というか語調が強すぎるかな?それに、人生を仕事にささげる人のためのものって感じで、現代にはそぐわない気もします。

「取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。」高橋まつりさんは、この精神で仕事に取り組んでいたのでしょうか。

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